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精霊の舞、継ぐ者たち ②

last update Last Updated: 2025-04-01 10:10:53

 リノアとエレナの衣装の美しさは他の村人と比べて際立っている。ドレスは精霊の祝祭を象徴する金色と赤色で彩られ、裾には様々な精霊を模した刺繍が施されている。髪は金色のリボンで束ねられ、花冠のように小さな花々が飾られていた。

 今日は彼女たちが祭りの象徴なのだ。

 広場のあちこちにテーブルが並べられ、村の味を伝える料理が山盛りになっている。パンの香ばしい匂いや果実の甘い香りが漂う中、果実酒の瓶が次々と開けられ、グラスが楽しげに揺れる。村人たちは料理を囲みながら冗談を言い合い、そして大きな声で笑い、時には昔話に花を咲かせた。

 その中を元気いっぱいに駆け回る子どもたち。一息つく間もなく食べ物を手に取って口に頬張っては、満面の笑みを浮かべている。はしゃぎすぎた子どもが転んでも、すぐに立ち上がって走り回るその姿は微笑ましくもある。

 笛の音色や太鼓のリズムに合わせて村人たちが身体を動かす。踊るだけではなく歌い出す者も現れ、広場の熱気がさらに高まった。

 夜空の下、揺れる灯りが照らし出すのは、満ち足りた笑顔と一体感に包まれた村の光景だった。

 広場の片隅で、リノアは村人たちの動きをじっと見つめた。皆、笑顔を浮かべている。しかし、その表情にはどこか張り詰めたものがあると感じた。明るく振る舞ってはいるが、誰もが心のどこかでシオンの死を引きずっているのだ。悲しみを抱えながらも明るく振る舞うその姿は健気でありながらもどこか痛くもある。

 これではシオンも心の底から喜ぶことはできないだろう。

「シオンの奴、祭りに参加できなくて残念に思ってるだろうな。どうして突然、死んでしまったのかね」

 年配の男性、マティアスが果実酒を飲みながら、近くの友人に言った。

「本当にな。でも、あれほどまでに祭りを望んでいたんだ。シオンの分も楽しまなきゃ」

 友人が答えた。

 シオンの親友で村のパン屋を営むマルコは、祭りのテーブルに村一番のパンを並べていた。彼も笑顔で人々にパンを配りながらも、心のどこかでシオンの不在を感じているようだった。

 若者たちのグループでは、アリシアが陽気に一人で踊っていた。アリシアは私の幼い頃からの親友だ。

「アリシア、その踊り、素敵だね。シオンが見ていたら喜んでたと思うよ」

 友人の一人が言った。

「ありがとう。シオンがいなくなって寂しいけど、悲しむ姿を見せたくないの。前を向いて
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    「気になるのは……」 エレナが口を開き、眉を少し寄せながら思案深げな表情を浮かべた。「グリモナ村の村長グレタ、そして女性戦士レイナよ。この二人が何の目的でリノアについて尋ねてきたのかがはっきりしない。クラウディアさんは注意するようにって、警告してくれてるけど……」 エレナが警戒して言った。「グレタとレイナってどんな人たちなんだろう」 リノアは手紙を見つめながら、小さく呟いた。「トラン、見張りをしていたなら、この二人に会っているんじゃないの?」 エレナの問いかけに、トランはすぐに答えた。「もちろん、会ってるよ」 トランは得意げな口調で答えた。「その人たちは昨日の夕方に村に来たんだ。グレタって人はクラウディア様より老けていて、レイナって人は背の高い女の人。様子は普通じゃなかったよ」 トランは見張りの時の光景を思い出しながら語った。「普通じゃなかったって、どういうこと?」 エレナが眉をひそめ、慎重に問いかけた。「何ていうか……言葉では上手く説明できないんだけど、あの二人は何かを隠しているように感じたんだよね」 トランが自信なさげに言った。「もしかして……昨日、道ですれ違った二人のことかも」 リノアがハッとした様子で目を見開いて言った。「そう言われてみれば……。きっと、あの二人だわ。あの二人で間違いないと思う。あの時は、ただの旅人だと思ってたけど」 エレナもその場面を思い返し、真剣な表情になった。 部屋に緊張感が漂う。 トランの言葉とリノアたちの記憶が繋がり、グレタとレイナが単なる訪問者ではないことをリノアたちに確信させた。 グレタたちが何を目的としているのか、その意図が見えてこないまま、不安が増幅していく。「その二人がグレタとレイナなら、グレタとは直接、会話を交わしてる……」 リノアは記憶をたどりながら、慎重に言葉を選んだ。「でもあの人たちってリノアのことを、リノアだと気づいてなかったよね」 エレナは真剣な表情で言葉を発した。「私やシオンのことを人伝に聞いて知ったってことなのかな」 リノアは手紙から目を離し、少し考え込むように言った。「付き添いの女性、レイナは殆ど口を開かなかったわね。あまり私たちには関心がなさそうだった。意識を常に森の奥に飛ばしていたし」 エレナも記憶をたどりながら言葉を発した。 レイナか。

  • 水鏡の星詠   ヴェールライト ④

     手紙を読み終えたリノアは、しばらく手紙を見つめ、クラウディアの言葉を一つ一つ心の中で反芻した。その目には、どこか迷いがある。 リノアはクラウディアの思いを深く感じ取り、深い思考に沈んでいった。 手紙の言葉の端々にはリノアを案じる母親のような温かみのある愛情が込められている。「クラウディアさん、私が外の世界に行きたがっていたことに気づいてたみたい……」 リノアの表情に複雑な感情が浮かんでいる。「でも……本当は引き止めたかったんだと思うよ」 エレナがふと口にした。 エレナの声にはクラウディアの心情を思いやる優しさが込められている。「うん、分かってる」 リノアはそう言うと、視線を床に落とした。「本当は心配でたまらないけど、リノアならきっと大丈夫だって。クラウディアさんはリノアを信じることを選んだのよ」 エレナがリノアに寄り添いながら言葉をかけた。──私を信じて…… リノアは目を伏せたまま、胸の中に広がる思いに心を寄せた。──今までも外の世界を見てみたいという願望はあった。しかし、ノクティス家という自分の立場を考えたら、自由に動き回ることなんて許されるはずもない……。 ずっと心のどこかで、自分は一生この村から出ることはできないのだと諦めていた。だけど今、それをクラウディアさんが壊してくれた……「クラウディアさんは私のことを信じてくれている。私はその想いに応えたいと思う」 リノアは意を決したように顔を上げた。──もう、ここに踏み留まる理由はない。クラウディアさんが私の背中を押してくれている。 リノアはペンダントを握り締めた。 ヴェールライトの冷たい感触がリノアに揺るぎない覚悟を与える。「クラウディアさんは分かっているのよ。リノアなら、この森の未来を切り開くことができるってね」 エレナが柔らかな声で言い、優しい瞳でリノアを見つめた。「村を守りたいって思うところ、何だかリノアらしくて良いね」 トランが二人の間に割って入った。 トランは明るく振る舞っているが、どことなく哀しげな雰囲気を秘めている。「私がついてるもの。どんな困難が降りかかっても、絶対に乗り越えられるわ」 エレナはまっすぐにリノアの目を見つめて言った。その表情には仲間としての覚悟が滲んでいる。「ありがとう。エレナ、トラン」 リノアは二人の言葉を微笑んで返した

  • 水鏡の星詠   ヴェールライト ③

    「でもさ、あのシカなんで消えたの?」 トランが問いかけるように口を開いた。 その瞳には驚きとほんの少しの不安が混じっている。 リノアはヴェールライトのペンダントに視線を落としながら、答えを探るように考え込んだ。 森そのものが姿を変えた存在—— あの存在と対峙した時に私の心に芽生えた感情。それは恐怖ではなく、森が私に語りかけ、包み込むような不思議な感覚だった。「もしかしたら……森そのものが怒りや悲しみを、あのシカの形を借りて表現していたのかも。それが鎮められたから、霧と共に消えていったんじゃないかな」「えっ、あれってシカじゃないの?」 トランが不思議そうな顔でリノアを見つめる。「違うと思う……」 リノアは少し戸惑いながらもそう答えた。その表情には完全な自信があるわけではない。しかし自分の直感を信じようとする姿勢が感じられる。「私も何となくだけど、殺してはいけない気がした」 エレナの瞳には、どこか遠くを見るような思索の色が浮かんでいた。「森そのものが、私たちに何かを伝えようとしたのだと思う」 リノアの声には不思議な重みがあり、トランとエレナは無意識のうちに聞き入った。 トランは一瞬、口を開きかけたが、言葉が見つからないようで、すぐに口をつぐんだ。 室内に静寂が訪れる。「何だか、よく分かんないや」 トランがぽつりと呟いた。 リノアはトランに微笑みかけ、トランの混乱を受け止めた。「ああ、そうだ。クラウディア様から手紙を預かっていたんだった。リノアに渡してって」 トランが慌てた様子でポケットから紙を取り出した。それを受け取ったリノアは、クラウディアの文字が綴られた手紙に目を通す。 紙の表面には、独特の筆跡でこう書かれていた。リノアへ 星詠みとしての力を真に目覚めさせた時、あなたは龍の涙を完全に使いこなす資格を得るでしょう。 この龍の涙が秘める力は人類にとって必要不可欠なものです。しかし、その力を軽々しく扱ってはいけません。使い方を誤れば、その力は必ず破滅への道を開きます。 龍の涙の存在は決して知られてはならない。知られたら必ず奪いに来る者が現れます。その危険を忘れてはなりません。 グリモナ村の村長グレタ、そして付き添いの女性戦士を名乗るレイナ。この者たちが村にやって来ました。 グレタはリノアについて色々と詮索してきまし

  • 水鏡の星詠   ヴェールライト ②

    「リノア、それってペンダントについている鉱石と同じものじゃない?」 そう言って、エレナがペンダントを床から拾い上げて手に取り、鉱石の横に並べて見比べた。「ほら、ペンダントは加工してあるけど、同じものだと思うよ」 エレナの言葉にリノアはペンダントに目を落とし、ゆっくりとうなずいた。 輝きや質感は異なる。しかし根底にある力の種類が一致しているように感じる。「シオン、これをどこで手に入れたんだろう?」 リノアがぽつりと呟く。 この鉱石はこの付近で採れるものではない。「さっき、ラヴィナって言ってたけど、ラヴィナって誰?」 エレナがトランに問いかけた。「他の村に住んでる人だよ。鉱石にめちゃくちゃ詳しくてさ。シオンもその人から鉱石のことを聞いたんじゃないかな」 トランの声には好奇心と年下ならではの無邪気さが表れている。トランは見張り役として村の内外をよく知っている人物だ。「リノア、ラヴィナって誰か知ってる?」 エレナがリノアに問いかける。「ううん、聞いたことない」 村外の話を聞くことは殆どない。知っているのは外部と交流のある人くらいだ。「そっか。シオンが交流していたのなら、悪い人ではなさそうね。だけど、どうして、こんなものを手に入れようと思ったんだろ。ただ珍しいからという簡単な理由じゃないはず」「私もそう思う。鉱石とは言え、いたずらに破壊する人じゃないし」 ペンダントは加工してある。恐らく、シオン自らの手によるものだ。「シオンは全てのものに生命が宿っていると考える人だった。シオンはこの鉱石を手に入れ、そして加工する必要があった。ということじゃないかな」 エレナの言葉に、部屋の空気が少し張り詰める。「何かもっと大きな理由……」 リノアが呟くように言った。 獣の怒りを鎮めたこの鉱石が、ただの装飾品や珍品ではないことは明らかだ。「ラヴィナと会って、この鉱石について話を聞く必要がありそうね。その人なら、シオンが何を考え、この鉱石をどんな目的で入手し、加工したのか、手がかりが掴めるかもしれない」 エレナの言葉が静かに部屋に響く。 リノアはエレナの推測を心に刻みながら、ペンダントにそっと触れた。──ヴェールライトが私をどこかに導こうとしている……。 リノアは目を閉じて、心の中で輝きを放つ光を想像した。──このヴェールライトは、この

  • 水鏡の星詠   ヴェールライト ①

     リノアの手が震えながら伸び、机に散らばる鉱石の一つを掴んだ。 その指が触れた瞬間、冷たい感触がリノアの掌に広がり、鉱石が銀色の光を放った。強烈な光の波が部屋を一気に駆け抜け、獣の黒い霧を押し返していく。 獣の瞳が揺らぎ、その青白い光が一瞬だけ弱くなった。動きも止まり、威圧的な雰囲気が影を潜めていく。 その表情には抑えきれない悲しみの色が垣間見える。瞳の奥に、どこか遠い過去を見つめているかのような切なさ。黒い霧に包まれた身体が微かに震えている。 怒りの奥底に隠された深い悲しみ── リノアは、その存在が抱える苦悩と悲哀に触れたような感覚を抱き、胸の奥に何かが共鳴するのを感じた。 霧は獣自身の苦悩を語るかのようにゆっくりと形を変え、獣の胸の奥から漏れ出る呻きは痛みとなって部屋全体に広がっていった。 獣は青白い瞳を伏せると、前脚を折り曲げて上体をゆっくりと床に身を沈めた。 その姿は祈りにも似た純粋さが漂っている。何かを求めるような儚い気持ち……。 リノアを特別な存在として認めているかのようであった。 リノアは、その様子に息を飲んだ。 目の前に存在するのは敵ではない。何かに苦しみ囚われている存在そのものだ。その揺らぐ瞳の中に宿る無言の訴えが、リノアの心に深く響く。──何かの秘密に触れたような感覚がする。 目の前の存在は、私のことを、自然そのものを象徴する特別な存在であると認識している…… リノアは気づいた。自分の選択が、森全体の未来を左右するのだということを── リノアの心に畏れが広がっていく。 リノアは胸に下げていたペンダントを手に持つと、シカに似た存在に歩み寄った。震える手で、その首にペンダントをそっと掛ける。 シカに似た存在の表情が緩くなっていく。無垢で穏やかな瞳……。安らぎを思わせる本来の姿だ。 静寂の中、シカに似た存在はリノアをじっと見つめた後、ゆっくりと消えていった。黒い霧も共に消え去り、部屋に清浄な空気が満たされていく。 机の下に隠れていたトランが這い出し、身を震わせながら言った。「リノア、すげえ! 今、何したの? その鉱石、ヴェールライトの鉱石だろ? ラヴィナに使い方、教わったの? シオンでも使いこなせなかったのに」 矢継ぎ早に質問を投げかけるトラン。 先ほどの恐怖を忘れたのか、その瞳にはリノアへの驚きと尊敬が込

  • 水鏡の星詠   月明かりのシルエット ⑨

    「トラン! どうして、ここにいるの?」 エレナが弓を下ろさぬまま、鋭い声でトランに問いかけた。 警戒の色が未だ消えないエレナの目に、トランは居心地悪そうに頬を掻いた。「クラウディア様から手紙を預かったんだ。リノアたちに渡せって。何書いてあるか知らないけど……。居なかったら紙を置いて帰れって言われたんだけどさ。俺、待ってたんだ」 トランの声からは焦りと幼さが感じられる。「なんだか、もう、このままリノアたちに会えなくなる気がしてさ」 トランの瞳が揺れる。 熱と不安が入り混じったその声は、一瞬、エレナの表情を和らげた。「帰らなくて正解だったね」 エレナは再び、外に意識を向けた。 トランは見張り役として、森の異変——草木の枯れ、シカの狂気など様々なものを見てきた。外部の者との会話で他の村人よりは、外の世界のことも知っている。 姉のミラに守られがちだが、村のために役立ちたい。その想いは人一倍強い。 トランは「会えなくなるから」と言った。しかし、この場に踏み留まった理由はそれだけではないはずだ。「うわぁっ!」 トランが叫んだ。 突然、窓ガラスが激しい音を立てて飛び散った。鋭い動きで飛び込んできたのは、青白い瞳を持つシカに似た獣だった。その身体から立ち上る黒い霧が部屋を満たし、重々しい冷気が漂い始める。 トランが悲鳴を上げ、咄嗟に机の下へと隠れた。 エレナが弓を構え、鋭い眼差しで獣を狙う。 放たれた矢は空気を切り裂きながら飛び、かすかな音を響かせた。しかし獣は反射的にその矢を躱したかと思うと、鋭い勢いでリノアへ向かって迫ってきた。 獣の瞳がリノアたちを鋭く見据え、緊張が一気に高まる。 リノアは後ずさりながら、獣の鋭い瞳を睨み返し、距離を取った。その視線は獣の動きから一瞬たりとも離れない。──龍の涙が脈動している。自然が私に何かを訴えようとしているのは分かる。だけど、一体、どうすれば良いのか…… 全身を緊張が支配する。 リノアは深く息を吸い込み、胸の奥底に広がる緊張と不安を振り払おうとした。 この瞬間の選択が運命を大きく左右する——そんな得体の知れない感覚がリノアの心を支配した。「リノア、トランを守って!」 エレナの強い声が響いた。 その言葉に反応するように、リノアはトランに駆け寄り、机の下に潜り込むトランの前に立った。 震

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